聖パウロ女子修道会 協力者会 −ともに福音を宣教するために−
平塚 「協力者の集い」のご報告
2008年10月1日
パウロ年が始まる直前の6月4日、平塚修道院では、聖パウロ修道会前管区長夫津木昇師をお招きし、「わたしたちにとってパウロ年とは」というテーマで講話を聞き、パウロ年をスタートしました。今年は日本188殉教者の列福という大事な出来事があり、パウロ年と日本の殉教者列福が重なることの意味を深く受け止めたい、という思いで、10月1日、「パウロ年と188殉教者」をテーマに聖パウロ修道会管区長山内堅治師のご指導で半日の集いをもちました。
前回も雨模様がわたしたちを心配させましたが、今回も「雨が降ると、あしがないので 残念ながら参加できない・・・」との但し書きのついた参加申し込みが3件あったので心配していたところ、朝は雨の音であけ、わたしたちはその3人の方々をすぐ思ったのでした。ところが、次第に空は明るくなり、受付が始まる頃にはうっすらと日が射していました。
たまたま九州から友人の家に泊まりがけで訪ねて来ていた方が一緒に参加するといった、うれしいこともあり、19人の参加者が充実した半日の集いをもちました。
秘跡を大事にしたい、というわたしたちの願いから、このような集いのときには、必ずミサとゆるしの秘跡を含む計画をしていますが、今回も、9時から10時まではゆるしの秘跡希望者のために当てられました。
0時から院長シスター金井の挨拶。その中で、平塚修道院が門の脇に設置している小さな宣教用ボックスからのちらし普及の紹介と、10年余の間のちらしが集められて生まれた新刊『シスターからのメール便』の紹介がありました。
山内師のお話「パウロ年と188殉教者」は、使徒パウロから入り、日本の殉教者の生き方に見られるパウロと重なる点に触れながら、日本で信仰を貫いた殉教者の生き様を感銘深く、身近に感じさせる形で展開されていきました。かいつまんでそのお話をご紹介しましょう。
![]() |
![]() |
受付 | 協力者の集い |
- 昨年6月に教皇様がパウロ年を予告されたときから、パウロ家族としてパウロ年を日本の教会で盛り上げていくために日本の司教様方のお考えを伺ったときに、「11月の列福式までは、そのことでいっぱいだ」という動きに突き当たりました。その流れの中で、パウロ年は殉教者列福とぶつかると困ることではなく、「パウロ年と列福式は一緒になって、二重の恵みのときになるはず」という思いがふくらんでいった、という体験のエピソードをまず話され、その恵みをいっぱい受けるようにしよう、と話を進められました。
- パウロは異邦人の宣教者。ペトロは最初の共同体の創立者。それぞれに神から与えられた使命は違いながら、二人とも教会のいしずえであるという点で同じ。
- さて、パウロを知る道は二つあり、使徒言行録がその一つ、もう一つはパウロの手紙。
使徒言行録には、パウロのことが物語られているが、パウロ自身の直接の言葉ではない。使徒言行録には、ペトロについても、パウロについても、失敗談は書かれていない。二千人、三千人が洗礼を受けた…などのような成果。アテネのアレオパゴスのパウロの体験は例外的な失敗談。そこで、今日は、パウロの手紙から、パウロの言葉そのものをいくつか拾い上げていこう。 - ローマの信徒への手紙1章1節「使徒として召され、神の福音を告げるために選び出された、キリスト・イエスのしもべパウロ」とある。ここは大事なところである。パウロは自分のことを使徒であると強調する。他の人は使徒というときに、12使徒とかキリストの復活を見た人を指し、パウロを使徒とは呼んでいない。しかし彼は言う。
−選び出された、つまり自分の決定や選びではない、と言う。今、わたしたちは司祭・修道女になるとき、自分でこの道を選んだ、と思っているものだ。パウロの強調は「選び出され、召され」た点。
−しもべ…「ドゥーロス」という原語は、しもべというより、奴隷、主人の意のままに働く者。 - コリントの信徒への手紙二10章10節「手紙は重みがあり力強くもあるが、会ってみれば、体つきは貧弱で、話も取るに足らない」使徒言行録からはわからないパウロの実像である。パウロの像や絵は、時代の古いものほどパウロはぶ男である。
- パウロは自分について回心という言葉は使わない。彼は「捕らえられた」と言う。
- 先述したように、使徒言行録17章にアテネのアレオパゴスでの失敗が書かれているが、パウロは宣教した大都市にはローマ、コリント、フィリピ、エフェソと手紙を送っているが、アテネには送っていない。アレオパゴスの失敗はパウロがひどく情けなく感じた体験だったのだろう。だから、アテネに手紙を書こうとしなかったのではないだろうか。
パウロのこのあたりの体験は、ペトロ岐部神父の体験と大いに重なっていくところだろう。 - ペトロ岐部は1587年に豊後に生まれる。13歳で有馬のセミナリオに入り、そのままついに帰郷していない。イエズス会に入りたかったがかなわず、8年間同宿として筑前の甘木、秋月で働き、日本で司祭になりたいと願ったが、実現しなかった。それには、キリシタン弾圧の状況もあるが、彼の我の強い性格の問題もあったようだ。マカオ、インド、ゴアへと旅する。ゴアには日本からすでに「ペトロ岐部を司祭にはしない」という手紙が先回りして着いていた。そこでローマを目指し、パキスタン、イラン、イラク、ヨルダンなどを徒歩で横断している。過酷な旅の後、エルサレムに立ち寄り、ついにローマに到着し、念願の司祭に叙階される。1620年のこの時期の手紙に「自分の召し出しに満足しています」と言い、「自分自身の救いと同胞の救いのために前進しようと大きな希望を抱いています」とも書いている。そして日本への帰路につくが、それは8年の歳月を費やし、4回の破船に遭うという、使徒パウロの体験を上回るとさえ言えるような体験の後に日本に着くのだが、帰った祖国は迫害の嵐のただ中であった。
- 捕らえられ、拷問を受け、「ペトロ岐部は転び申さず候」との言葉が残されているとおり、穴吊り、焼けた鉄棒を腹に当てられての絶命という52歳での殉教だった。
パウロの2コリント11,23−28に述べられる使徒の労苦は、ペトロ岐部の生涯と実に重なっている。「キリストに仕える者だというのですか。気が変になったように言いますが、あの人たち以上にわたしはキリストに仕える者なのです。苦労したことはずっと多く、牢屋に入れられたこともずっと多く、うたれたことは比べられないほど多く、死の危険にさらされたこともたびたびでした。…難船したことが3度、外海で一昼夜漂流したこともありました。・・・」と続きます。
![]() |
![]() |
協力者の集い | ミサ |
参加者は、パウロをその手紙から直接の言葉で知っていく、というパウロを知るための一つの秘訣を教えていただき、さらにパウロの生き方と殉教者の生き方が見事に重なっていくのを、何人かの殉教者の姿をとおして知ることもできました。
ジュリアン中浦、原主水、アダム荒川…と何人かを取り上げ、パウロの生き方・言葉と重ね合わせて聞きながら、パウロを、そして、日本の殉教者を、わたしたちも心に描きもちながら、信仰を貫きたいという願いを新たにされて、講話に続くミサの中で恵みを祈り求めた集いでした。