聖パウロ女子修道会 協力者会 −ともに福音を宣教するために−

パウロ、そのキリスト中心性

教皇ベネディクト16世は水曜日の定例謁見のときに、聖パウロの生涯とその使徒活動に見られる「イエス・キリストの中心性」をテーマに2回にわたってお話しておられます。わたしたちパウロ家族にとって最高の指導者である教皇様のお話、しかもパウロ家族の保護者であり師である使徒パウロについてのおことばですので、ごくかいつまんでですが、ご紹介します。(2006年10月25日、11月8日定例謁見から)

聖パウロダマスコ途上での復活のキリストとの出会いは、パウロの人生を根底から覆したのでした。
彼にとって決定的だったのは、イエスの弟子だと宣言して自己紹介する人々の共同体との出会いでした。パウロがいう「この道」つまり新しい道を歩むこの人々の共同体は、神の掟を中心にして集まった人々ではなく、イエスという人物を中心にして生きている共同体だったのです。イエス、つまり、十字架につけられ復活したイエスです。パウロ自身も、後に「キリスト・イエスに捉えられた」(フィリピ 3.12)といっています。つまり、キリスト・イエスから直接に、ということです。ですから、彼は「神のご意志によってイエス・キリストの使徒であるパウロ」(2コリント 1.1、エフェソ1.1、コロサイ1.1)と自己紹介するのです。

パウロ自身の口からこの出会いの意味を聞きましょう。パウロがその手紙の中で、神のみ名を500回書いていますが、キリストのみ名も380回に達します。これは、1人の人間の中にイエス・キリストが及ぼすことの出来る甚大な影響を物語るものです。キリストとパウロとの出会いはどのようなものだったのでしょうか? 出会いにおけるパウロの応答から2つのことが浮かび上がってきます。

まず第1は、信仰こそ絶対的な土台であり、他の何ものもこれに取って代わることは出来ない価値がある、ということです。パウロのことばを聞きましょう。「人が正しい者とされるのは、律法に定められた行いとはかかわりなく、信仰によるものであると、わたしたちは考えます」(ロマ 3.28)、「わたしたちはキリスト・イエスのあがないの業を通して神の恵みにより無償で正しい者とされるのです」(ロマ 3.24)。

パウロはこのように、自分の回心の内容、復活のキリストとの出会いから起こった人生の新しい方向を語ります。「今わたしがこの世に生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身をささげられた、神の子に対する信仰によって生きているのです」(ガラテヤ2.20)。ですから、パウロは次のように断言します。「わたしには、われらの主イエス・キリストの十字架のほかに誇りとするものが断じてあってはなりません。キリストの十字架によって、この世はわたしに対して十字架につけられ、わたしもこの世に対して十字架につけられているのです」(ガラテヤ 6.14)。

そして、ここから、パウロがくり返し強調する大事な現実が出てくるのです。「洗礼を受けてキリスト・イエスと一致したわたしたちは皆、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのではありませんか。わたしたちはその死にあずかるために、洗礼によってキリストとともに葬られたのです。それはキリストが御父の栄光によって死者のうちから復活させられたように、わたしたちもまた、新しいいのちに歩むためです。同じように、キリスト・イエスに結ばれて、あなたがたも罪に対して死に、神に対して生きている者であることをわきまえなさい」(ロマ 3.3-5、11)。この最後の表現はパウロの中で重大な、意味深長なことばなのです。信じる者は「キリスト・イエスのうちにある」(ロマ 8.1、2、39、12.5、16.3、7、10、1コリント 1.2、3など)のです。パウロはしばしば、このことばを逆転した形でも言い表します。つまり、「キリストがあなたがたの内におられるならば」(ロマ 8.10、2コリント 13.5)、「キリストこそわたしの内に生きておられる」(ガラテヤ2.20)など、キリストと信者とのあいだにあるこの相互浸透は、パウロがくり返し述べている現実です。

「キリストの愛がわたしを虜にしています。わたしたちはこういう考えに達しました。『一人の人がみんなのために死んだ以上、みんなが死んだのである』と。そして。その1人の人がみんなのために死んだのは、生きている者たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのゆえに死に、そして復活してくださったかたのために生きるためなのです」(2コリント 5.14、15)。

ですから、彼はキリストのために生きるのです。キリストへの献身において誰にも負けたくないのです。「彼らはキリストに仕える者だというのですか。気が変になったように言いますが、あの人たち以上にわたしはキリストに仕える者なのです。苦労したことはずっと多く、牢屋に入れられたこともずっと多く、打たれたことは比べられないほどに多く、死の危険にさらされたこともたびたびでした。ユダヤ人から『39回打ち』を受けたことが五度、ローマ兵から鞭打たれたことが三度、石を投げつけられたことが1度、難船したことが3度、外海で一昼夜漂流したこともありました。しばしば旅をし、川の難、強盗の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海での難、偽兄弟からの難に遭い、苦労に苦労を重ね、たびたび眠らずに過ごし、ひもじい思いをしたり、のどが渇いたり、しばしば食べずにいたり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。これに加えていろいろな事があった上に、日々わたしにふりかかる心配事、あらゆる地方の教会に対する気苦労があります」(2コリント 11.23-28)。

パウロは言います。「神がわたしたちについていてくださるならば、だれがわたしたちに逆らうことが出来ますか」(ロマ 8.31)。わたしたちの内にも確実に実現している、パウロの生きたこの現実を、深く信じ、生きながら、わたしたちの生きる道の一歩一歩で、パウロとともに次の信仰を宣言しましょう。「わたしは信じてきた方をよく知っており、また、その方は、わたしにゆだねたものを、『かの日』まで守ってくださる力があると確信しています」(2テモテ 1.12)と。

ある日の聖体訪問

ひかり

教皇様のおことばを読んだ今、神が初代教会に与えられたパウロというすぐれた使徒が、21世紀に生きているわたしたちにとっても、どれほどの賜物、恵であるかを深く味あわせて頂けるよう、祈りましょう。

真理の霊が来ると、
あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。
          (ヨハネ 16.13)

あゆみ

あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
          (ロマ 6.3-5、11)

わたしたちの中でキリストの死に肖らなければならないのは百合の花
何でしょうか。どの点でしょうか。
正直に認める勇気と力を聖霊に願いながら、
自分自身の内側にとどまりましょう。
「変わりたい」という望みがあるとき、
その変化はすでに始まっている、と言われています。
望みを大事にし、キリストの復活の力に信頼して、
生活の中で具体的なことを決め、
その望みを現実にしていくように努めましょう。

めぐみ

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
          (ロマ 8.31)

「パウロ家族の祈り」の一部を引用します。 「毎月第一月曜日には、聖パウロを知り、彼に祈り、召命を受けている人々をよく育てるために、彼に親しく近づき、同時に全会員と協力者のために、使徒職の精神を祈り求めます。」

師イエス、
聖パウロを恐るべき迫害者から、教会の熱誠あふれる使徒に
変えてくださったあなたの深いあわれみをたたえます。
偉大な聖人使徒パウロ、
恵みに対する温順な心、主欠点からの回心、イエス・キリストへの変容を、
わたしのために求めてください。
  使徒聖パウロ、わたしたちのために祈ってください。

師イエス、
聖パウロに神と教会に対するあふれる愛の心を与え、
その熱誠によって多くの人を救ってくださったあなたをたたえます。
わたしたちの友 使徒パウロ、
社会的コミュニケーションを手段とする使徒職、
祈りの使徒職、模範の使徒職、働きの使徒職、言葉の使徒職を実践する
いきいきとした望みを、わたしのために求めてください。
こうして、忠実な使徒たちに約束された報いを
受けることが出来ますように。
  使徒聖パウロ、わたしたちのために祈ってください。