聖パウロ女子修道会 協力者会 −ともに福音を宣教するために−

パウロの情熱

聖パウロ女子修道会管区長 三嶋 邇子

聖パウロの回心

 聖パウロの墓がある大聖堂は、城壁外の聖パウロ大聖堂というその名が示すように、ローマの町はずれにあります。このあたりは、かつては湿地帯で、およそ人家などなかった荒れ地だったと思われます。聖堂の奥の中庭に面した入り口に、「パウロの墓」と書いてある石版のかけらが保存されていました。四世紀ごろのもので、パウロがローマの郊外で斬首刑になった後、信徒がこの場所に墓を築いたのだという説明書きがありました。くぎでひっかいたようなその文字をじっとみながら、わたしはパウロの生涯、晩年、特にその死について感慨深く思いを馳せました。

 パウロはディアスポラ(分散ユダヤ人)で、ギリシアの文化圏に育ちましたが、律法に関しては、ファリサイ派に属する非常に厳格な教育を受け、それを誇りにしていましたし、外国に住む同国民に対しても、律法の厳格な遵守を強要していました。
 そのパウロがダマスコの町で、復活されたキリストと出会うのです。このときの体験は非常に強烈なもので、その後の彼の生き方を一変させ、パウロは生涯かけてこのキリストとの出会いの体験を深めていきます。彼はこう言っています。
 「わたしはキリストに捕らえられたので、なんとかしてその死と復活にあやかろうと走りつづけています」(フィリピ3.11〜14参照)。

目標をめざして走りつづける

 前に向かって走りつづける姿は、パウロの特徴です。パウロはあまりにも自信に満ちていて、迷いを知らないので、あまり好きではない、という人がいます。しかしわたしがパウロにひかれるのは、彼の生き方や手紙からくみとることのできる、その「ひたむきな姿」です。神さまと自分に対する徹底した誠実さというものが、心に響いてきます。彼があれほど偉大な神秘家になった条件は、彼の誠実さにある、ということを聞いたことがあります。

 パウロは言います。
「わたしはすでにそれを得たというわけではなく、すでに完全なものとなっているわけでもありません。なんとかして捕らえようと、努めているのです」(フィリピ 3.12)。
 神さまを捕らえようとして走りつづける、ここに神秘家の特徴があります。聖アウグスチヌスが、告白録のなかで言っています。「神よ、あなたのうちに憩うまで、休むことを知りません」。また、小さい聖テレジアは、「神さまを愛して、愛して、愛しぬきたい」と願いました。雅歌の著者も、神さまを見いだしてはまた見失い、愛する人をさがし求める姿、つまり神さまとの一致にいたる道を歌っています。こうして神さまに向かって走りつづける姿は、聖人たちの特徴と言えます。

苦悩と試練をとおして……

 それならこのような聖人たちには、迷いや挫折がなかったのでしょうか。どんな聖人も内的苦悩をまぬがれた人はいない、と言われています。パウロにとっても、その試練はやってきます。

まばゆいほどの光につつまれたあの出来事──キリストとの最初の出会い、そしてイエス・キリストをのべ伝えるという新しい使命を受けたダマスコでの体験──パウロは以前と同じ情熱をもってすぐにその使命に向かいます。しかし、パウロの宣教は挫折にぶつかります。使徒言行録は、このように述べています。

「サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、『この人こそ神の子である』と、イエスのことをのべ伝えた。これを聞いた人々はみな、非常に驚いて言った。『あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやってきたのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか』。しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、この陰謀はサウロの知るところとなった。そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、かごに乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。サウロはエルサレムにつき、弟子の仲間に加わろうとしたが、みなは彼を弟子だとは信じないで恐れた。……彼らはサウロを殺そうとねらっていた。それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた」(使徒9.19〜26、29〜30)。

 同胞の敵意に出会い、ダマスコの町を追われ、またエルサレムでも体よく追い出され、ゆだねられた使徒職を果たすことができず、パウロはやむなく故郷タルソの町で天幕づくりをし、摂理の時を待ちながら、ひっそりと暮らす日々がつづきます。失意と孤独と沈黙の時期です。パウロは最初の出現についておそらく悩まされたであろう、と言われます。このように、タルソの職人として働くはめになるなら、なぜ主はわたしをお呼びになったのか。わたしの耳に響いたあのことばは、いったいなんだったのか。使徒言行録のなかで、パウロはこう言っています。「……わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである」(使徒26.16)。

 このような黒雲に閉ざされた状態をとおして、パウロは浄化の道、神さまの神秘のご計画のなかに導かれていきます。どんなに神さまのためにはやる気持ちがあったとしても、我執にもとづく情熱の火は、神さまにふれられて清められなければなりません。そしてパウロに再び使徒活動に励む機会がやってきます。

異邦人の使徒

 パウロは異邦人の使徒と呼ばれています。彼はユダヤ人の枠を大きくこえてキリストを告げ知らせたからです。「わたしが福音をのべ伝えても、誇りにはなりません。それは務めです。もし福音をのべ伝えないなら、わたしにとってわざわいです」とパウロは言っていますが、キリストに捕らえられたパウロの一面がここにあらわれています。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです」(二コリント5.14)と。実にパウロは徒歩と当時の交通手段である船を使って、エルサレムからイリリコン州まで巡り(ローマ15.19)、ローマ行きを切望し、スペインに向けての旅行を計画していました。彼のキリストへの愛は境界を知りません。

 しかしながら、パウロの宣教活動がいつもはなばなしい結果をもたらしたわけではありません。今日と同じように、キリストをのべ伝えることはパウロにとっても非常に困難なことでした。たしかに福音のもつ力によって、思いがけない方法でキリストに従う信徒が広まっていきました。と同時に、反対者や誹謗者にも多く出会い、パウロはユダヤ主義者と呼ばれる律法に熱心な人たちに、終始悩まされつづけました。パウロが行くところ、騒動や暴動がたえませんでした。そして、パウロを亡き者にしようとする人たちが、折りあらば、と彼を訴えるチャンスを伺っていました。こうして、ついにパウロは囚人として捕らえられ、ローマでの裁判を受けるためにローマに送られることになります。このような形で、パウロのローマ行きの計画は実現します。

獄中のパウロ

 晩年、パウロは牢獄にありながら、弟子のテモテに書き送っています。「アジア州の人々はみな、わたしから離れ去りました……」(二テモテ 1.15)。テモテは若い司教で、経験もなく、困難な状況のなかで重責をになっています。人々は激しい口論やむなしい議論にあけくれています。パウロがテモテに勧めることは、どんなプロジェクトや勧めよりも、「あなたがいただいている霊のたまものをもう一度燃え立たせなさい」ということです。

 パウロは後年、だれよりも多く働いた、と彼自身言っています。しかし、それは神さまの恵みでそうできたのだとも言っています。そして「わたしに与えられた恵みは無駄になりませんでした」ということができました。
 パウロのように、あれほど激しい熱意にあふれて宣教活動に従事した彼であっても、晩年は寂しい孤独な状況のなかで、人々からも忘れられ、キリストの十字架の道に従っていったという事実が、ことのほか重く迫ってきます。そして、牢獄のなかで彼のなかに燃えていた火は、かつて律法に対して抱いていた情熱の火や自分や他人をまきこみ、使徒職をわがものとしないではいられない熱意ではなく、聖霊に生かされた愛であったということです。

 パウロが殉教したとき、打ち落とされた首が三度はずんで跳ね落ちた跡から三つの泉がわき出たと言い伝えられています。現在はそれを記念してトゥレ・フォンターネという場所に聖堂が建てられています。