聖パウロ女子修道会 協力者会 −ともに福音を宣教するために−

キリストを生きるとは……

イエス

 今回のテーマは『キリストを生きる』というテーマです。キリストを生きるということは、神の子キリストがこの世においでになって、この世で生活をされて、喜び、笑い、悲しみ、苦しみ、そういうものを経験されたキリストの全体を、そのままわたしたちが見つけ、そのまま受け入れることにつながると思います。

 十字架のキリストだけでなく、復活の喜びのキリストだけでもなく、キリストの生涯、全体を受け入れること、これがたぶん『キリストに生きる』あるいは『キリストを生きる』という結論になるかと思います。

 キリストの全体を見るためにどうすればよいのか? たぶんこれがわたしたちの黙想の一つの考え方、見方になるのかと思うのですが、先ほど申しました目指すべき理想と現実、過去と未来、神とわたしという形を切り離して考えるのではなくて、一つのものとして考えることが、考え方の一つのヒントになります。

 聖パウロが言っているように、赤ん坊のときは赤ん坊のように、子どものときは子どものように、大人のときは大人のようにというように、そのときの対処の仕方があります。自分が今どこにいるのかということは、皆さん一人ひとりが考えてみてください。わたしはこの段階、ここにいる、そして目指すべき理想はここにある、ということをしっかりとらえることは、物事を考える場合の一つの出発点になると思います。

 それは「わたし」の過去を考えることかもしれないし、でも過去で終わってはならない。教皇が日本に来られたときに、広島でのメッセージの中で「過去を考えること、過去を振り返るということは、将来にたいする責任を負うことである」という有名なメッセージがあったことはご存じのことと思います。このメッセージは直接的には戦争の愚かさについて話されたことの中の一部ですが、これはわたしたちの人生にとってもいえると思います。

 過去を振り返ること、それは振り返るだけに止まってはいけません。反省だけでとどまってはいけません。前に向かって、将来に対して、未来に対してわたしたち自身が責任を負うことでなければなりません。これはたぶん今のわたしたちにも通じるものがあるかと思います。たしかにわたしたちの理想とするところというか、姿というのは、聖パウロが言うように「われ生くといえどわれにはあらず、キリストこそわがうちに生き給うなれ」ということだと思うのですが、わたしたちキリスト者の理想とするところは、わたしが生きているけれども神様によって生かされている。神様がわたしのうちに生きている、わたしは神様のうちに生きている、というのが理想だと思います。けれども同じパウロは、別のところで、一種の嘆き、訴えかけもしています。肉体的なことを考えていると、彼は持病を持っていたし、そしてまた、性格的に見るならば、非常に短気であり、我慢することを知らないといっては失礼ですが、非常に我慢に対して弱い人間であったと思います。ことばでいえば実直、裏を返せば非常に融通のきかない、意志が固いといえばいいのですが、非常に頑固な性格の人間であったようです。

 あるいはまた聖書に出てくるペトロのことを考えると、ペトロはおっちょこちょいの人間で、考える前に何かする性格であったように思えます。イエス様が声をかけられたときに、海に飛び込んでイエスのところまで泳いでいこうとしました。でも彼は礼儀を少し知っていたようで、すぐ上着をきて飛び込みました。普通だったら、裸のまま飛び込んだかもしれません。一番極端の例が、かつてずっとキリストと一緒に生活し、「わたしは命をかける」といったにもかかわらず、「いやわたしはキリストを知らない」と否認しています。後になって後悔して涙をずっと流しつづけたといわれています。

 ペトロというのは考える前にパット行動して、後になってよかったといって大喜びもするし、あるいは悲しむ性格の持ち主であったようです。

 ヤコボやヨハネもイエスから「雷の子」といわれていたほど短気でカッカする熱情的な人間であったようです。そのように人間の個人個人が違い、わたしたちと接する人々がすべて違うように、神様がそういうふうに人間をお造りになりました。その現実がわたしたちを豊かにしていると思います。そういった違った人々がいるから世の中は、混乱もあり豊かにもなります。そういう機会の中で、わたしたちは人間としてもキリスト者としも磨く機会があり、高める機会に恵まれます。そういうことをとおして神様はわたしたちに理想に近づきなさいといっていると思います。

 生きた組織をもっているキリストの教会が、理想的な人間の集まりであるならば、それは完成された教会であって、キリスト様が望まれる教会ではないと極端にいえばいえると思います。いろいろな人がいるから神様はそのことをとおしてわたしたちを高めるようにと、いっているような気がします。

聖パウロ会 夫津木神父の講話より