聖パウロ女子修道会 協力者会 −ともに福音を宣教するために−

協力者とのはじまりと役割

聖パウロ

 協力者会のことについていうならば、この協力者会というのができたのは組織的には少し後になりますが、さっきいったようにアイデアは最初にありました。「修道会による働き」というのは、後になって生まれました。なぜなら一人の信者がマスコミを使って福音宣教しようというときに、継続性がなければ、その人の人生とともにその事業も終わるが、教会は永遠につづく、キリストの使命、メッセージを伝えるというのは、教会がつづくかぎり教会がしなければならない仕事である。この仕事を、わたしたちが継続的に行うためには、やはり修道会でなければならないと考えました。

 男女修道会が別々にあり、一つずつ独立していますが、アルベリオーネ神父が1番はじめに考えたことというのは、非常に変わったというか、今までになかった発想で、修道会というものを考えていました。一つの修道会の中の2つの部分という発想をしていました。それは今までになかったことなので、バチカンの指導によって、はじめに男子修道会をつくり、その後それと同じ目的、仕事を持った女子修道会をつくりました。それはお互いに補助的な役割を持つものでなくて、同じ目的と使命を持った2つの修道会といえると思います。

 キリストを人々に伝えるという仕事のために、修道会という形態をとると、それが一般の人、いわゆる修道生活をしない人たちにはできるけれど、修道生活をすると、あるいはまた修道会自体ではできないことが出てきます。そこで協力者会という発想が出てきました。皆さんの協力者会というのは、わたしたちを助けてあげましょうという補助的な第二次的な存在ではなく、わたしたちが日本語的でいうならば、肩を並べたというか、− 独立した切り離したという意味ではなくて − 同じ目的、精神を持っていますが、異なった方法で、もしくは協力しあっていく存在なのです。上下的関係の存在でなくて、協力者会というのはしっかりした考えの下で、しっかりした霊性、精神を持っている一つの共同体なのです。

 わたしたちの創立者は、それを望んで協力者会というグループをつくったのです。日本にわたしたちの修道会がはじまって長くはありませんし、協力者会も長くありません。皆様が今後この会に属し、このような集まりをもって、会の歴史とか精神を学びながら、自分たちの立場が、どういう位置づけにあるのか、そしてまたわたしたちの役割がどういうものであるのかということをわかっていくと思います。少なくとも出発点をいうならば、修道生活をしないけれども、直接間接的に宣教をするグループです。宣教のための、祈りとか犠牲とか、献金とかいいますが、たとえばわたしは何もできないけれども、祈りならできるという方がいるかもしれません。あるいは、時間はないけれど少し我慢して献金をしましょうという方がいるかもしれません。そういう方々の一つの集まりが協力者会という会をつくっています。そういう位置づけの中で注意しておいていただきたいことは、創立者もいっているのですが、協力者会員だから何かしなければならないという、しばられた義務感というのは何一つないということです。わたしたちの積極的な自発的な関わりであって、規約というのはありますが、規約というのは、わたしたちがキリスト者として当然しなければならないこと、してはならないこと、それを守ることが規約であると思います。それ以外のことはそれを助けるために文章化されたものです。文字でもってしばられるのでなくて、文字はあなた方を助けるためにあるということが現実です。


 こういう協力者会の中にあって、わたしたちがする役割を一つ考えるとするならば、わたしたちの歩むべき道というのは、パウロがそうであったように究極的にはキリストをまねるというか、キリストの生き方を黙想する、キリストが生きたように生きるということです。キリストがこの世に来られた目的は、彼がしばしばいっているように、聖書の箇所を思い出せばわかると思います。「わたしは父のみ旨を行うために来た」(マルコ 1.38)「わたしの思いではなく、父のおぼしめしのままに」(マルコ 14.36)「あの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。わたしはそのために遣わされた」(ルカ 4.43)という箇所があります。ヨハネ福音の最後のところで「わたしはみ旨を行うために来た」十字架上で息を引き取られるときには「成し遂げられた」つまり父のみ旨をすべて行われた、わたしは実現した、成し遂げたという言葉で終わっています。キリストの使命がそこにあったというように考えさせられます。あるいはまた、キリストのことを考えるならば、聖母マリアのことも考えなければならないと思います。特にルカ福音書で聖母マリアのことを中心に追ってみたり、聖母のいわれたことを追ってみると、マリアの言葉とか、行いの中に見いだされるし、よくわかると思います。

 プリマ・マエストラ・テクラもそうであったと思います。今後わたしがプリモ・マエストロとか、プリマ・マエストラという言葉を使うと思いますが、わたしたちは自然にプリモ・マエストロとかプリマ・マエストラといいます、語尾だけを気をつけていてください。「オ」で終わったら男性で「マ」で終わったら女性です。  プリモ・マエストロは「ロ」で終わるので創立者のことをさしますし、プリマ・マエストラは「ラ」で終わっているので女子の修道会初代総長をさします。

 わたしがプリモ・マエストロに最初にお会いしたのは、中学1年生のときでした。その後は、1967年にローマに行き、そのときにはプリモ・マエストロ(アルベリオーネ神父様)はご存命で、1971年11月26日に亡くなったのですが、わたしは同年8月20日ごろまでローマにおりましたので、お会いする機会がたびたびありました。

 プリマ・マエストラ・テクラは、すでに亡くなっておられましたので、お会いする機会はありませんでしたが、古い人たちに話を聞いたり、書かれたものを読む程度です。面白いというか、そうだと思うのは、プリモ・マエストロとプリマ・マエストラ・テクラの精神がまったく同じで、しかもプリモ・マエストロがいっている「前進しなさい」とか、「前に向かって」「あなた方の霊性はもっと高いところ向かって」、というような表現もほとんど同じです。そのような言葉をプリマ・マエストラ・テクラも自分のシスターたちに向かって繰り返しています。そこにパウロという宣教者を理解していた二人の共通点があると思います。そこに、教会の中でこの仕事を神から授かっている。あるいは神からしなさいといわれている一つの使命感があると思います。これはパウロの精神であるし、パウロ会の、パウロ家族の修道会に共通する一つの精神であるように思います。

 プリマ・マエストラ・テクラがときにはプリモ・マエストロをとおして、神のみ旨を理解し、進んでゆくのですが、女子修道会の歴史をみると、極端にいうとこういう形になっているのではないかと思います。

聖パウロ会 夫津木神父の講話より