聖パウロ女子修道会 協力者会 −ともに福音を宣教するために−

聖パウロとわたしたち(三)

イエズス会 粟本 昭夫神父

弱さを誇るパウロ

聖パウロ

 世紀をとおしてまれにみる神の人、キリストへの愛に燃え上がっていたこの聖パウロにも、信じられないほどの「人間的弱さ」がありました。聖パウロの書簡は、情熱の人、キリスト化された人間の面目が紙面にあふれていますが、実は、その威勢のいい文面からは想像もされない弱さをもっていました。説教も雄弁ではなく、むしろ、おそれにとりつかれ、ひどく不安であり、体も貧弱でした。

 今の今まで飢え、渇き、着る物もなく、住む家もなく、自分の手で働きながら労苦を重ねている、と彼は告白しています。生きる望みさえ失ってしまうほどであり、途方もなく圧迫され、死の宣告を受けていると思うほどであり、わたしはなんと惨めな人間だろうと嘆いています。

 今のわたしたちより、ずっとずっと貧しく生活していたのです。そして、その気苦労もわたしたちの比ではありませんでした。新しく生まれた教会の中での派閥争い、信者の無理解、ユダヤ人の妨害、諸教会のゴタゴタなど、まさしく枚挙にいとまがないくらいでした。

 しかし、これらの弱さ、苦難、苦労、嘆き、絶望的なことが、聖パウロの熱意を冷ます作用にはなっていないのです。むしろ、これらの不利な点を、彼は逆に生きるエネルギー源にしているのです。

 その秘訣を彼は、こう書いています。

 キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
                     (二コリント 12.9〜10)

 なぜ弱さを嘆かないのでしょう。それは、自分が弱いとキリストの力が自分の中に宿るからです。自分が弱いとキリストが働いてくださる、だから弱いときこそ強い、と言えるのです。このことを体験として知っている聖パウロは「わたしはキリストとともに、十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではなく、キリストこそわたしの中に生きておられるのです」(ガラテヤ 2.19〜20)と、力強く信念をもって喝破できたのです。

 このことはまた、キリストの御ことばによっても裏付けされています。
 「あなたがたは、わたしを離れては何事もすることはできない」(ヨハネ 15.5)。
 ですから、聖パウロにとって自分が弱いことは、大きな神の恵みだったわけです。このことは、わたしたちにとっても同じであるはずです。

 この世の知恵、富、権威などをキリストの十字架に比べたとき、糞土のように思え、わが身の弱さ、苦悩をキリストの力の現れと思い、ひたすら走り続けた聖パウロの見本は、初代教会のみならず、教会の全歴史をとおして、そして現代も、常にわたしたちキリスト者の不滅の見本です。

 強い聖パウロに学びましょう。
 弱い聖パウロに学びましょう。