聖パウロ女子修道会 協力者会 −ともに福音を宣教するために−

復活の主に出会うということ

聖パウロ女子修道会 シスター今道瑤子

復活のイエスとマグダラのマリア

 ヨハネ福音書20章の1節から18節は、キリストを愛する者が、復活したキリストに少しずつ深く出会っていく過程をたいへんよく描いています。

 マグダラのマリアはルカ福音書によると罪ふかい女性でしたが、キリストに魅せられ、勇気をもってキリストに近づき、真心からの涙と愛を主にささげ、無言のうちに罪をゆるしていただいた女性です。彼女は回心を濃密に体験しました。生まれてはじめて自分を信頼してくださる方に出会い、自分の尊厳を取り戻させていただいたのです。以来、彼女はキリストにつき従う者となり、キリストを愛し続けました。

 イエスが十字架につけられたとき、他の弟子たちは師を捨て去りましたが、マリアは聖母とともに十字架の主を見守っていました。自分に親しくかかわってくださった生前の師に愛着していた彼女には、その主とのかかわりを断ち切ろうとするかに見える主の死を受け入れることはできませんでした。

 一夜を泣き明かしたマリアは暁とともに家を出て墓へと急ぎます。腕に香油の壺を抱え、師の御亡骸を、せめてふさわしく葬りたいと墓に着いてみると、なんと、墓の入り口の石が転がされていて空いているではありませんか。イエスの亡骸がそこにはもうないことを彼女は直観します。主の唯一の形見である御亡骸がだれかに盗られた。彼女はあふれる涙をぬぐいもせず、一目散にペトロに報せに行きました。そしてイエスの愛しておられた御弟子にも伝えます。
「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません。」

 驚いた二人も墓に向かって走り出しました。イエスに愛された若い弟子の方がペトロよりも早く墓に着きましたが、尊敬のために中には入らず、身をかがめて中をのぞくと、イエスをくるんであったはずの亜麻布が見えます。この弟子はそれを見て思いめぐらしています。そのうちにペトロもやってきて、中に入りました。御顔をくるんだ汗ふきの布と、御体を包んでいた布は別々にもとの場にぺしゃんこに残っていて、ご遺骸はありません。先に着いていた若い弟子も入ってきてこれを見ます。そして信じました。この弟子は、墓に残っていた印を見て信じたのです。何を? 主が復活されたことをです。

 マグダラのマリアは違います。どうしてもご遺骸を取り戻したいと必死でした。彼女は墓に引き返し、墓の外に立って泣いていました。
「マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら、身をかがめて墓の中を見ると、二人の天使が見えた。」


 一つ一つの表現には意味があります。外に立って、つまり彼女は空の墓の秘義の外にいるのです。主の死を、全存在をあげて拒んでいたのです。けれども次第にこの秘義が彼女を照らしはじめます。思い直して、泣きながら恐る恐る墓に近づきます。まだ墓に入る気はしませんが、身をかがめます。この身をかがめる行為から、彼女の信仰の歩みがはじまります。もし墓の外にずっと留まっていたら、悲しみは悔しさに、悔しさは怒りに、怒りはイエスを殺した人々への憎悪に変わったかもしれません。

 自分の悲しみに閉じこもる代わりに、勇気を出して墓の闇に向かったときから、闇に光があることに気づきはじめます。闇の中に輝くいのちを予感しはじめます。墓の中を見ると、イエスの遺体を置いてあったところに、白い衣を着た二人の天使が見えました。二人はそれぞれイエスの御体が置かれていた両端に座ったまま問いかけました。
「婦人よ、なぜ泣いているのか。」
マリアはそれでもまだ、あの、自分が親しく従ってきた生前のイエスの亡骸を探しています。まだイエスの亡骸にこだわっているのです。ただ、天使の、
「婦人よ、なぜ泣いているのか」という問いかけが、この悲しみに直面し突破口を見いだそうとしない愚かさに気づかせてくれます。
「わたしの主が取り去られました。どこに置かれてあるのかわたしにはわかりません。」
こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えました。後ろを振り向くという言葉には、動作だけでなく、時間的に過ぎ去ったときを思い返すという意味がかけられているのではないでしょうか。マリアは、イエスとともに過ごした幸いなときを懐かしんでいます。と、一人の人が見えました。けれども彼女にはまだそれがイエスだとはわかりません。

 この場面は、エマオの弟子の物語とも共通します。「救いは○○の形であらわれなければならない」という固定観念に囚われているときには、主がどんなに近くにいてくださっても、それとわからないのではないでしょうか。


 イエスは、天使の言葉を繰り返されます。
「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを探しているのか。」
 マリアは園丁だと思い込んで、自分の求めている唯一のもの、先生の遺骸のことを尋ねます。考えてみると、この情景は実にこっけいです。復活した主が自分のそばにおられるのに、しかも自分に言葉をかけてくださるのに、それと悟らず、しかも復活の主を前にしながら悲しみにうちひしがれて、その御遺体がどこにあるかを知っていたら教えてほしいと頼んでいるのです。翻って自分を省みるなら、わたしたちもこのようなまねをしているのではないでしょうか。

 ご自分を慕う者に対するイエスのなさり方は、いつもほんとうにデリケートです。この場合もイエスは「マリア」と、名指しで呼びかけてくださいます。それを聞いたマリアは、
「わたしの先生!」と言いました。

 ここでヨハネは不思議にも、「彼女は振り向いて」と書いています。今まで、体は墓の方に向きながら振り向いてイエスを見ていたのですから、今度は墓の方を向いたことになります。これはやはり空の墓の秘義に心を向けたことと、過去から現在に立ちかえったことを意味するのかもしれません。

 マリアの、「わたしの先生」という呼び名に込められているのは、わたしの知っているあの先生、つまりご生前のイエスです。マリアはイエスだとわかりましたが、イエスがラザロのように生きかえったと思っています。自分はイエスを知っていると思い込んでいるために、せっかくご自分をあらわしてくださる復活の主を見ても、主とわからないのです。イエスは全然次元の違う生にお入りになった、ということがわかりません。ですからイエスは、「わたしにすがりつくのはよしなさい」とおっしゃったのかもしれません。

 マリアの観点では、イエスはまだ御父のもとに上っていないのです。信仰の目が開けて、復活とはイエスが御父のみもとに上っていかれたこと、永遠の生の中に決定的に入られたのだということがわからないかぎり、復活したイエスとともにいることはできないのです。たとえイエスがともにいてくださったとしても。ですからイエスは、マリアを兄弟たちのところに福音の使者として派遣なさったのです。


 イエスの派遣のみ言葉を聞きましょう。
「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」

 マリアは何がなんでも自分のイエスにしがみつこうという態度を捨てます。先生を見て安心したマリアは、ご命令に喜んで従います。そして弟子たちのところへ行って、
「わたしは主を見ました、と告げ、また主から言われたことを伝えた」と福音は言います。

 マリアは主の派遣に従いながら、先生は、単に生きかえられたのではなく復活されたのだということを少しずつ悟りはじめます。そのときからもう、泣くことがあっても心の底に平和を宿しています。目には見えなくても、主がともにいてくださることを知り、信じていますから。

 日曜日ごとのミサで、復活の主との出会いと派遣を、わたしたちもこのように生きようではありませんか。