聖パウロ女子修道会 協力者会 −ともに福音を宣教するために−

信心のすすめ U 「祈り」

アルべリオーネ神父

シオン

 「何事でも神のみ心にかなうことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事はなんでも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」(一ヨハネ 5.14-15)

 祈りは、神の栄光と人びとの平和を得るための大いなる手段です。祈りは、神が、創造と救い、人間の聖化のために与えてくださった道です。これは、創られたものすべてが、絶えず、どんなときにももっていなければならない目標でもあります。祈りは、神ご自身が望んでおられることを行うために、神と人間が協力することであり、わたしたち人間が使うことを神が望んでおられる手段です。しかも神は、わたしたちに先立って、わたしたちよりももっと、わたしたちがよく祈るなら聞き入れようと望んでおられるのです。

 イエス・キリストは祈るとき、御父の心と考えの中に入って行かれました。イエス・キリストの御名によって祈るということは、イエスの祈りにわたしたちが実際に一致し、彼において、彼とともに、彼によって祈ることを意味します。

 聖アウグスティヌスは次のように言っています。「永遠の救いに反することを願うとき、救い主の御名によっているのではない。キリストがわたしたちの祈りをご自分の祈りにすることが常に必要なのだ。そして彼は、もしわれわれの祈りが神の栄光と人びとの平和のためであるならば、ご自分のものとなさるのである。それゆえ、悪い事柄、すなわち神が与えることができず、また与えたくもないものを願う人の祈りは、祈らないのである」と。

 主は言われます。「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる」(エレミヤ 33.3)。「わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう」(詩編 50.15)。「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる」(マタイ 7.7)。「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(ルカ 11.10)。「祈り求めるものはすべて、既に得られたと信じなさい」(マルコ 11.24)。「わたしの名によってなにかを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(ヨハネ 14.14)。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によってなにかを父に願うならば、父はお与えになる」(ヨハネ 16.23)。

 エジプトでヘブライ人たちが奴隷であったとき、祈り、そして解放されました。モーセはアマレク人との戦いで勝利を祈り聞き入れられました。ヨズエ、ユティット、エステルは祈り、そして聞き入れられました。福音でも、重い皮膚病を患っていた人びと、生まれながらの盲人、カナンの女、百人隊長らは祈りました。心からささげたすべての祈りはイエス・キリストに喜ばれました。

 祈る人は、聖霊においてイエス・キリストとともに願うのです。「“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執りなしてくださるからです」(ローマ 8.26)。わたしたちは祈るとき、神のみ旨そのものの中に入り込むのです。恵みを与え、祈らせるのは神なのです。どうしてわたしたちの祈りが聞き入れられないわけがあるでしょうか。聖人たちはみな、彼らが望むものを得たのです。「祈りからあらゆる善が得られ、かつ、あらゆる悪が遠ざけられる」(聖ボナベントゥーラ)のです。

 テルトゥリアヌスの次の言葉を黙想しましょう。「祈る人に、神はなにを拒めようか。ただ祈りだけが神に勝つのだ。イエス・キリストは、祈りに全能を与えられた。それゆえ祈りは弱い者を強め、病者をいやし、悪魔を追い払い、罪のない者を解放する。祈りは罪を消し、誘惑を退け、苦しむ者を慰め、迫害を終わらせ、心の広い者を支持し、旅人を導き、波を鎮め、盗みをやめさせ、貧しい者を養い、倒れる者を立ちあがらせ、よろめく者を支え、正しい人を固める」。
 こうして、ただ一つの祈りがすべてを成し遂げるのです。

糾明 − わたしはどれだけ祈っているだろうか。
     わたしがする念祷や口祷に比例した善を行っているだろうか。

決心 − もし私が望むなら、必要な恵みをすべて受け、救われることは確かである。
     毎日、わたしの祈りを神のみ心に沿うよう努めよう。