聖パウロ女子修道会 協力者会 −ともに福音を宣教するために−

諸聖人の通功 <聖徒の交わり>

アルべリオーネ神父

天井画

 今月、わたしたちの考えは、もう既に永遠に入った兄弟姉妹へと向かう。そして霊的に彼らを天国の天使たちのうちに眺めている。

 天国の考えは、他のすべての考えにまさるもので、生活にひとつの方向を与えるものである。
 考えを天にあげ、天国に入るとき味わうであろう喜びを前もって味わいたいと願う。これは「永遠の生命を信じる」というひとつの信仰行為である。「聖性と天国への道を大胆に歩みたい」という方向づけである。「いつかマリアを見、キリストとともにいたい」という望みの行為である。同時にひとつの刺激ともなる。欲する、強く欲する! 断固として、天国に向かって歩もう。あらゆる行いは天国に向かうものであるように。

 また、わたしたちの望みの中に、地上の巡礼を既に終えた人びとが早く神の直観、義人の平安、永遠の安息に入るようにという願いも持とう。わたしたちの教会は、この地上の闘う教会、死後の償う教会、そして勝利の教会に分かれている。わたしたちは地上にあって闘う者である。神の国は力ずくで、つまり本当の勇気によって獲得される。正しく勇ましく闘う者だけが冠を受けるのだ。「洗礼者ヨハネのときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」(マタイ 11.12)。

 二つの決心をしよう。まず、既に永遠に入ったがわたしたちの援助をまだ必要とする兄弟たちを助けること。次に、わたしたち自身のために計らうこと。

 パウロ家族は教会の小さな一部であり、教会と同じく、地上でまだ闘っている人びとがいる。それから、死んで清められつつあるメンバーがいる。そしてまた、確かに聖母マリアと聖パウロとともに至聖三位一体の至福直観のうちにいる兄弟姉妹もいる。

 わたしたちは善意を持っているが、地上にいる間はたくさんの欠点や不完全さに負けてしまう。しかし天国に入るためにわたしたちは完全に清くならなければならない。つまり、犯した罪を完全に償い終え、地上のものから完全に離脱して、天使や殉教者、使徒の群れに参加するに値するほどの清さと熱心さで生きなければならない。この地上から離れるとき、地獄に値するほど汚れた者ではないにしても、直接天国に入るほど清くもない。だから神はあわれみによって、魂が清められるための状態をお定めになった。わたしたちはその状態にあっては救われたことを確信するが、同時に神への愛によって悩まされ、すぐにも神を観想したい、神と一致したいという激しい望みに悩まされる。彼らはそこまで苦しみを受け、神へと強く惹きつけられながら、同時に神の正義の強いみ手に押し留められる。その神はあわれみによって、この世のわたしたちにひとつのカギをくださった。心のやさしい人は、そこから来る嘆願を聞くであろう。

 今地上にいるわたしたちは、永遠に入った兄弟姉妹、協力者たちを自分の心に抱き、ミサをささげる司祭とともに、彼らをパテナに置こう。死者のために祈ろう。修道会は、わたしたちがこの世にいる間は聖化のために大きな援助を与え、永遠に入ってからは代祷をしてくれる。一致は死によって断ち切られるのではなく、完成されるのだ。互いに愛し合おう。特に、自分を助けることができない者、すなわち清めの状態にある兄弟姉妹を愛そう。彼らはこの世で闘っているわたしたちのために祈りつつも、自分では与えることのできない彼らへの援助を期待している。

 地上のあちこちから出発して、それぞれの所に葬られたわたしたちの兄弟姉妹を思い起こそう。彼らは身体こそ出発したが、良い模範や精神によってなおわたしたちと共にいる。

 わたしたちに先立って天の国に入り、そこからお互いに助け合う聖徒の交わりは非常に美しいが、パウロ家族にとってそれは、互いに与え合う命や功徳の循環を考えるともっと美しく見える。超自然的なことがらを互いに分かち合うからである。しかしその条件として、互いの知恵と意志と心の一致が求められる。

 師イエスが地上の生活を終えられる前に持っておられた唯一の気がかりはこれである。「ひとつであるように」。ご受難の前にキリストがなさった「イエスの祈り」と呼ばれるあの祈り(ヨハネ17章)において、このことを四回も繰り返された。従順と愛徳のうちに行われるこの愛、意向、考えの一致は、わたしたちをどれほど高め、わたしたちの魂をどれほど富ませてくれることか。

 最後に、出版・映画・ラジオ・テレビその他のメディアの悪用によって清めの状態にある人びとを思い出さなければならない。その中には、編集者、芸術家、視聴者、読者、観客だった人たちがいる。彼らは数え切れないほどであろう。

 このような原因で清めの苦しみの中にある人びとを助けよう。わたしたちの使徒職を彼らの罪の償いと見做そう。勉学、霊的働き、使徒職、清貧の実行、熱心な日常生活は、彼らの罰を償い、またわたしたちにそれを避けさせるであろう。パウロ的生活には、清めを必要とする罰の償いを避けさせるあらゆる手段がある。もちろん、死後、パウロ家族はわたしたちを助けるようにしてくれるが、助けを待つよりも、そこに行かないよう務めるほうがよい。
 つまり、亡くなった兄弟に対する愛徳を尽くしながら、自分のためにも賢明に生きよう。