聖パウロ女子修道会 協力者会 −ともに福音を宣教するために−

キリストを信じる者の共同体とパウロ(1)

聖パウロ女子修道会 Sr.ベルナルダ・カダヴィ

聖パウロの回心

 ダマスコでイエスに出会ったパウロは、イエスの感情を自分のうちに受肉させ、兄弟関係、使命の遂行、苦しみに対する態度などのうちに自己を変容させていきました。わたしたちはその模範を見るとき、強くて激しく凶暴なパウロではなく、優しく思いやりがあり、人をそのまま受け入れ、共同体のなかで調和を保ちながら生きようとするパウロに出会います。彼は実際生活のなかで、どのように使命を生きたのでしょうか。

 彼がイエスに出会ったとき、イエスは「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と名指しで呼び、彼も「わたしは何をすればよいのですか」と個人として答えています。ですから、パウロは個人的に召し出され、個人的にこれに答えたと言うことができます。しかしイエスは、これこれをしなさいとは言わず、彼を共同体に送ります。そこで神のご意志が示されるのです。

 イエスは一つのことだけ、つまり他の人に従うことだけをお求めになります。「ダマスコに行きなさい。しなければならないことは、すべてそこで知らされる」。「そこで」これは共同体を意味しています。イエスに従うこと、イエスの弟子であることの本質は、共同体においてであるということを理解しなければなりません。

 パウロはダマスコに連れて行かれます。自分では行くことができなくなり、他の人が連れて行くのです。彼はここから他の人に従属し始めます。
 ダマスコでは共同体の一人アナニアが、はじめ彼を受け入れようとしませんが、恵みによってパウロがすべきことを伝えます。これは非常に意味深いことです。パウロはこれを受け入れ、ダマスコの共同体の一員になります。彼が迫害し、縛り上げ、牢に投げ込もうとした人たちの共同体です。この神のなさり方をよく見てください。

 パウロはダマスコの共同体からアラビアに行き、そこで今までにした経験を振り返ります。主はご自分の福音を啓示なさり、パウロはこれを悟り、もう一度ダマスコの共同体に戻ります。
 ここで聖霊は、ペトロに会うためエルサレムに行くようパウロを促します。主はパウロに直接何かをお示しになりましたが、他の人たちからもイエスについて学ばなければなりません。そのために、エルサレムの共同体で弟子たちのもとに留まります。

 弟子たちに受け入れられたり拒まれたり、他者との持ちつ持たれつの関係のなかでパウロの信仰は成熟していき、キリスト教的共同体の深い意味を学んでいきます。この共同体と関わること、他者から受け他者に与えることのうちに、教会の秘義(教会論)に関する知識、キリストの神秘体としての教会の意識が深められ、熟していったのです。

 パウロはこの考えをいっそう深め、キリスト教の信仰はけっして個人的なものではないということに気づいたのです。キリストを知り、キリストを生きることは、キリストがわたしのうちに生きているというだけのものではありません。キリスト体験は、共同体の体験です。イエスを受け入れる人は、共同体の一員になります。唯一の体の一部になります。みな、一つの体のある部分をなしているのです。

 あなたはわたしの一部分であり、わたしはあなたの一部分であって、分離させることはできません。たとえわたしが離れたくても、それはできないのです。キリストは分離できない方法でわたしたちを一つに結ばれたのです。ですから、互いにありのままで愛することを学び、身につけなければならないのです。互いに心底から受け入れ合うことを学ぶこと。たとえ好感がもてない人であっても、わたしのいのちの一部なのですから。わたしの心、わたしの腕、わたしの足でもあるように、わたしのいのちの一部なのです。ですから、わたしがしている体験はすべて、共同体的体験です。

 このキリストを信じる者の共同体は、単に社会的共同体でも心理的共同体でもないとパウロは言います。共通点があるからとか、気が合うから一緒にいるというのはキリスト教的共同体ではありません。復活したキリストがわたしたちを一つに結び、共存させる共同体、これがキリスト教共同体です。

 復活したキリストは、ある人のうちにお入りになるとき、そしてその人が意識して彼を迎え入れ(洗礼を受けたとき、全き自由をもってキリストが自分のうちに現存なさることを受け入れました)、すなおに彼に従い、彼の望みを果たそうとするなら、キリストの霊が活発に働き始めます。その霊は、わたしを他者に開かせ、他者に向かわせます。たとえわたしとは違いわたしの気に入らない人でも、その人のやり方に好感がもてなくても、復活したキリストの霊はわたしをその人に向かわせ、交わるようにさせます。それが聖霊の働きです。わたしたちはみな一つの体を構成する部分であり、互いに相手を必要としているので、あなたの喜びはわたしの喜び、あなたの苦しみはわたしの苦しみということを互いに感じさせるのです。

 復活したキリストに満たされ、動かされる人は、たとえ違いがあっても困難があっても、他人を求め交わりを生み出します。キリストがわたしたちを一つに結ばれたのですから。これがほんとうのキリスト教共同体であり、人々が、わたしたちを主の体と見ることができる真の交わりです。復活したキリストがつくり出す交わりは、一人ひとりの違いや困難よりもはるかに強いものです。パウロがそれを示してくれています。

 毎日わたしたちを自分から出るようにしてくれる聖霊にすなおに従う共同体は、復活したキリストの生命のあらわれです。互いの違いをキリストにおいて生きるとき、それは交わりになり、わたしたちがみな違うからこそ互いに富ませ合うことができます。違いは富、豊かさです。
わたしたちのうちに人を迎え入れる行為、ゆるし、忍耐などがあるとき、その共同体にはキリストの生命力がみなぎり、外からもこれが見えるようになります。この行為から生まれる交わりが、人々をして、すばらしいと言わせるのです。これこそ第一の福音宣教です。