聖パウロ女子修道会 協力者会 −ともに福音を宣教するために−

大事なことは主がなさる
  〜聖パウロ女子修道会協力者会 発足式・入会式の説教〜

聖パウロ修道会 赤波江神父

 教会の誕生は、イエスが天に昇られて後、約束されたように御父の元から聖霊を派遣された聖霊降臨のときです。そのとき教会が誕生しました。しかしその教会の原型となるものが、今お聞きになりましたルカ福音書8章1節から3節に述べられています。

イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。・・・そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

パンの奇跡

 このイエス様の宣教は、二千年前のガリラヤにおける宣教だけではありません。わたしたちは、宣教活動をする人を宣教者とか宣教師と呼んだりしますが、いつの時代でも、宣教の主は常にイエス・キリストご自身です。イエス・キリストが宣教をなさるのです。御父のご意思を人々に伝えるために、イエス・キリストがわたしたちに先立って宣教しておられるのです。二千年前に人としてこの地上におられたときのお姿は見えませんが、イエスの宣教の協力をすることが教会の実態でなければならないのです。

 七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリアとか、ヘロデの家令クザの妻ヨハナなどという人たちが、十二使徒や他の弟子たちと一緒にイエスの宣教を支えていました。ほかの人が見たら、異常な人の集まりというふうに見えたのではないでしょうか。これが教会の原型なのです。もちろんこれは二千年前のことであって、今の教会の信徒たちがかつては悪霊につかれていた人たちということではありませんが、教会以外の人が見る信徒の集団というのは、なんだあの集団は、と言われるようなものかもしれません。でもその教会の一人ひとりが、それぞれ自分の持ち物、ある人は知識を、時間を、自由を、ある人は芸術的才能を、ある人は自分の仕事を通して、またある人は家庭という立場で、いろいろなものを出し合ってイエスの宣教に協力しているのが現代の教会の姿なのです。

 今日は聖パウロ女子修道会協力者会の発足の日です。協力という言葉には四つの力が使われています。 主の力に自分たちの力を合わせることです。福音書の中には、弟子たちや僕たちが主のなさることに協力する姿をあらわした奇跡の場面が幾つも出てきます。その最初のものはカナの婚宴での場面です。宴席のぶどう酒がなくなったことに気づいたマリア様が僕たちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言いますが、その言葉には、「大事なことはこの人がします。あなたがたはその協力をしてください」いう意味が含まれていることを見逃してはなりません。僕たちはマリア様のこの言葉に素直に従って、イエスから「水がめに水をいっぱいに入れなさい」「それをくんで宴会の世話役の所に持って行きなさい」と指示されたとおりに行動しますが、イエス様のこの言葉の中にも、「大事なことはわたしがする。あなたがたはその協力をしなさい」という思いが含まれています。

 あるいは五千人にパンを増やされた場面で、イエスは「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と大きな問題提起をなさいます。弟子たちは「パン五つと魚二匹がありますが、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と言いますが、イエス様はそのパンと魚を持ってこさせます。そして皆を青草の上に座らせるようにと言い、パンを皆に配るように弟子たちにお渡しになります。

 この福音の記者であるヨハネは、イエスがこれからご自分がなさろうとしていることを承知の上で弟子たちに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」という難題を投げかけられたと書いています。弟子たちは「できません」と言いますが、その弟子たちに対して、信仰が足りないとか、なぜわたしを信じないのかというお叱りはありません。「大事なことはわたしがする。あなたがたは、自分にできることで協力しなさい」と言われるのです。

 ふつう奇跡が行われると、その後でみんなはイエスを預言者とか神の子とかと賛美するのですが、パンの奇跡の後ではどの福音書も共通して、「食べて満腹した」で終わっていまです。賛美も感謝もないのです。五千人もの人がいたら、イエス様がパンを裂いて配る手元を見ていたわけではないから、大事なことは主がなさったということを知ることはできなかったわけです。それで満腹して終わる。非常におかしい。大事なことは主がなさった、ということを忘れているわたしたちの一つの場面でもあるのです。「大事なことはわたしがする、あなたは協力してください」という主の思いを、すべての信徒が、わたしたちに先立って神の国を宣べ伝えるイエスの協力者として持つことができるなら、その協力がどれほどの喜びとなることでしょうか。何らかの行動の結果を見て、成功と見るか失敗と見るか、いずれにしてもそれを自分の力によるものとするのは、決して協力者の姿ではありません。自分に力はないが、大事なことは主がなさるのだから喜んで協力しよう、というのがわたしたちの宣教なのです。

 今、新しい組織がここで作られようとしていますが、これは新しい宣教形態の誕生です。直接的には女子パウロ会の使徒職に協力することですが、イエスがなさる宣教のお手伝いをする新たな形です。

 第一朗読のコリントの信徒への手紙の中での、「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」というパウロの思いは、すべてをキリストの証しのためにという協力者としてのパウロの熱意にほかならない。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」の「どんなことでも」とは、たとえ火の中、水の中ということもありましょうが、むしろ「こんなつまらない小さなこと」という意味のように思います。

 今日から皆さんが新たな宣教を始められるにあたって、アルベリオーネ神父が創立したパウロ家族修道会には現代の教会が必要とするカリスマが与えられているということと、創立者がせつに望んでいた協力者一人ひとりには協力者としてのカリスマが与えられるということを信じてください。

 修道会が皆さんに求める協力がどんな種類のものであれ、聖霊の導きによってわたしたちが個人的に知ることのできない大きな実りが準備されていることを忘れてはなりません。聖霊の働きなしには協力者としての存在を保つことはできません。聖霊の促しを常に求めながら、主のみ国の建設のためのキリストの宣教に協力するにあたっては、大事なことは主がなさるということを決して忘れないようにしながら、主の呼びかけに応えることが協力者としての新たな宣教地への派遣です。新たな宣教地というのは、今まで行ったことのない場所へということではなく、どんな所にいても、新たな協力者としての聖霊の豊かな恵みを常に願うということです。
 大事なことは主がしてくださいます。喜びをもって派遣されて行きましょう。