聖パウロ女子修道会 協力者会 −ともに福音を宣教するために−

キリストを信じる者の共同体とパウロ(2)

聖パウロ女子修道会 Sr.ベルナルダ・カダヴィ

聖パウロ

 共同体における交わりが、パウロの使命の遂行に与えた豊かさを考察したいと思います。
 パウロは、回心の原点であるダマスコの体験にいつも戻ります。彼はイエスに出会い、復活したキリストに満たされて、すぐに一人で説教をはじめました。ダマスコでも、エルサレムに行っても一人で説教します。タルソに行っても同じようにしましたが、どんなにがんばっても成果はありませんでした。一人の改宗者もいません。なぜでしょうか。だれも仲間がいなかったからです。ところが、バルナバがパウロをアンティオキアの共同体に連れて行きました。共同体の一員になってからというもの、彼の宣教は実りを見るようになるのです。

 この共同体でみなが祈っているとき、聖霊が共同体に語りかけます。バルナバとパウロを選んで使命を委ねたからこの二人を派遣しなさい、と。共同体は断食し、祈り、二人の上に聖霊を祈り求めて彼らを送り出します。二人は一緒に出発し、困難も苦労も喜びも、心を一つにして共に分かち合いました。実に、このときから宣教は実りはじめます。以来パウロはけっして一人で宣教に出ません。バルナバがいないときはシラス、テトス、テモテ、ルカたちが同伴しています。このように、すべての宣教はいつもだれかと一緒でした。意見を交換したり一緒に決めたりと、だれかと一緒なら交わりが生まれ、宣教も交わりのうちに行われます。彼らのうちに交わりがあればあるほど宣教は豊かな実りをもたらしました。

 使徒言行録は交わりについて語っていません。だれもパウロのようにしていなかったのです。交わりこそパウロの成功の秘訣と言えます。もし人びとがあなた方の間に分裂があることに気づくなら、けっして近寄ろうとはしないでしょう。パウロの共同体は活気に満ちて開放的、多様性に富んでいて、一か所に留まることなく絶えず動いていました。どんな人でも違いをそのまま受け入れるので活力がみなぎっていました。このような共同体を見ると、人びとは惹かれ、わたしも一緒に行きたい、わたしも一緒に生活したいと望みます。ルカは、シラスとテモテとパウロが互いに愛し合っているのを見て、自分もあなた方と一緒に行きたい、と申し出ます。

 宣教と同様もっとも効果のある召命司牧は、わたしたちの心の交わりです。これがなければ若者はわたしたちに少しも魅力を感じないでしょう。交わりは人びとを惹きつけます。パウロの共同体は人びとを惹きつけました。バルナバと行った第一回の宣教の後3人の仲間ができ、第二回の旅行の後には4人、第三回の宣教の後には7人の仲間ができました。それぞれの共同体にはアニメーターがいましたが、その人たちを別にしてもこれだけの人たちがパウロの後に従ったのです。パウロは新しい共同体を作ると、そこに一人の責任者を置き、絶えずその責任者と交わりを保ちました。こうしてパウロの共同体は交わりによって堅固なものとなり、交わりは交わりを呼んで仲間が増えていきました。

 パウロは生活と宣教のすべてを共同体の責任者、つまり協力者と共にします。彼らは、パウロが直接行かれない共同体を訪問するために出かけましたし、手紙を書くのを手伝い、カリスマと恵みを共有していました。職務や任務に関係なく、パウロはみなを、福音のためのわたしの協力者と呼んでいます。差別や区別は一切なく、だれとも平等に同じ愛をもって接しました。ここから、使徒、教師、預言者、説教者、カテキスタなどそれぞれ違う賜物を受けながらも同じカリスマが生まれます。この共同体の中の違いを、パウロは豊かさとして役立て、福音宣教に活かしたのです。彼らはみなそれぞれの違いを認めて、パウロに奉仕するのでなく福音に奉仕するのだと知っていました。

 パウロはすべての共同体のアニメーターでした。パウロのアニメーションは精神的権威に基づいたもので、聖霊に従うことから来ています。仲間たちがパウロに従ったのは、彼が強いからとか知的に優れているからではなく、パウロが聖霊に導かれていたからです。キリスト教共同体における権威と敬意は、聖霊に従う程度によります。聖霊に従うなら、その人は共同体において権威を容易に行使することができます。しかし彼の権威ではなく、彼を導く聖霊の権威です。他の人びとはこの人の権威に耳を傾けることによって聖霊に従うのです。強い人、能力のある人が何事も最終決定をしたりすべてを処理してはならない、聖霊に従う人こそ真のアニメーターである、とパウロは教えています。

 共同体の中で、パウロが非常に優しい存在でもあったということを見るのは大きな慰めです。弱っている人、落胆している人がいるといつも力づけ、苦しみや問題を抱えている人には心を配り元気づけ、勇気づけていました。強い態度や言葉を口にしてしまったときは、どれほど悔み、謝ったことでしょう。「もしわたしに愛がないならわたしの言葉になんの価値があろうか」と言っています。彼は絶えず回心しているのです。愛されないために苦しんでいる人がいるのに気づくと自分のそばに呼び寄せます。すべての人を大切にし、気を配り、同伴し、彼らの代わりをし、後悔し、許しを願い、はじめからやり直します。

 このような雰囲気の中で使命を遂行するとき、実に大きな成果を生みます。多くの回心と召命を呼び起こします。パウロの共同体にはこのような熱心さがありました。この点についてパウロの手紙の終わりを読むとよく理解できます。どの手紙も最後は人びとの名前や愛情と優しさに満ちた挨拶で結ばれています。「わたしと一緒に働いているすべての聖なる人たちが、あなた方聖なる人たちに挨拶します。」パウロは共同体の兄弟たちを聖なる人と考えているのです。「信仰をしっかり守りなさい、他の人の世話をしなさい、わたしたちによくしてくれただれだれによろしく」など。パウロの心はまるで母親の心のようです。彼が話すときはほんとうに優しさに満ちています。わたしたちは彼の手紙の最後の章を読むとき、名前が列記してあるだけと思いがちですが、その後ろにあるパウロの心を読み取ることができれば、その優しさと愛に触れることができます。

 パウロに倣って、毎日交わりの意味を少しでも自分のものとするよう努めましょう。交わりを学び身につけるため、わたしたちのうちに既にある交わりの賜物を、意識して受け取りましょう。主キリストはわたしたちをキリスト者にしてくださることによって、彼のからだの一部としてくださり、キリストの共同体の一部にしてくださったのです。