聖パウロ女子修道会 協力者会 −ともに福音を宣教するために−

聖霊を求めなさい(1)
   −2012年1月9日 東京協力者会 入会式の説教−

聖パウロ修道会 赤波江謙一神父

「主の洗礼」の祝日の福音 マルコによる福音 1.7〜11

主の洗礼

 イエス様は33歳でこの地上における救いのみ業を成し遂げて、御父のみもとに帰られたと伝えられています。その中での宣教生活は3年であったと考えられています。でもイエス様は最初から、「わたしは30年間ナザレで大工をし、それから出家して3年間宣教し、33歳で十字架につけられて死ぬ」と考えておられたわけではないと思います。

 あるとき、霊に促されてヨルダンのほとりに来られ、霊に促されて洗礼者ヨハネから洗礼を受け、そこから霊に促されて宣教生活を始め、そして3年後に霊の導きによって十字架の上で贖いのみ業を成し遂げられた、すべて霊の促しによって成されたということを、わたしたちは聖書を読むときに念頭においておかなければなりません。今日のイエス様の洗礼の記念日のみ言葉がわたしたちに伝えようとしているメッセージは、まさにここにあると思います。

 イエス様は霊に促されヨルダン川のほとりに来られた。霊に促されて洗礼を受けられた。そのとき思ってもいなかったことが起きたということです。すなわち「天が裂けて」とマルコは表現しています。そして霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になった。イエス様ご自身びっくりなさったでしょうね。わたしが洗礼を受ければ天から聖霊が降ってわたしの上にとどまる、と思っていたわけではない。霊に促されて洗礼を受けられたとき、霊が降って「これはわたしの愛する子、心にかなう者」という声とともに、さあ、これから宣教を始めなさい、という大きな促しを受けられたのです。

 ルカ福音書は、このあとイエス様は荒れ野で悪魔からの誘惑を受け、「お育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである』」(4.16-19)というイザヤの預言が、今、実現したと言って、ご自分の宣教を聖霊の満たし、聖霊の油注ぎによってお始めになったと述べています。

 このイエスの洗礼、宣教事始めがわたしたちに与えている大切なメッセージは、あなたがたも、年の初めにあたって聖霊を受けなさいというようなことではありません。
 「主の洗礼」の祝日が年の初めに設けられていることには、わたしたちが福音宣教を始めるときには、常に聖霊を受けなさい、聖霊を求めなさい、聖霊の働きなしにどんな福音宣教もできない、という大切なメッセージが含まれています。

 昨日1月8日の読売新聞日曜版の「よみほっと」の読者欄に載っていた笑い話に、「ひらがなとカタカナが読めるようになった6歳の息子が『お母さん、“ごなかかかかありがとうございました”って何?』。そこには“ご協力ありがとうございました”と書いてありました」というのがありました。6歳の息子さんは、協の字の左の十をナと読み、右をカカカ、最後に下の力をカと読んだわけです。
 今日は、そのごナカカカカの人たちの会、一年前に発足した東京協力者会会員の更新の日であり、新しく入会される方の入会式の日です。

 「協力者会」の趣旨は、直接的には女子パウロ会の使徒職に協力し、修道会から皆様への絶えざる祈りをお返しすることなのですが、この協力はただ単に修道会の使徒職への協力ということだけでなく、もっと大切な、救いのみ業への協力という意味があるのです。一般的な協力の意味はお手伝いです。女子パウロ会が主体であり、その主体が行う活動をお手伝いする、人間的にはそういうことです。しかし、皆さんが協力と思っていることは本当に協力だけにとどまるのでしょうか。もしかしたら、主体である修道会の力よりももっと大きな力になる可能性もあるということを忘れてはなりません。

 「こんな小さなことをして、何になるのかなあ?」と思うこと、人間的にはそのままで終わるかもしれないことが、そこに聖霊の力が介入して来たときに、わたしたちは自分の行った力の結果というものを知ることはできないけれども、知ることのできないところで、大きなものに変わっていく可能性、神秘、真理を含んでいることを忘れてはならない、ということです。

 この小さな出来事が救いのみ業への協力だなんて、ね。あまりに次元が違いすぎて、開きがありすぎて、そんなこと…というふうにお考えになるかもしれません。そうお考えになるのは結構ですが、福音書には、この小さな行いが、とんでもないことをもたらしたとあるのをご存じでしょうか。 (続く)