聖パウロ女子修道会 協力者会 −ともに福音を宣教するために−

聖霊を求めなさい(2)
   −2012年1月9日 東京協力者会 入会式の説教−

聖パウロ修道会 赤波江謙一神父

神のお告げ

 聖母マリアは、救いのみ業における第一の、そして最大の協力者であるとわたしたちは理解し信じています。マリア様は天使から「あなたは身ごもって男の子を産む」とお告げを受けます。けれどもマリア様はその天使の言葉に対しておとめとして反論します。「どうしてそのようなことがあり得ましょうか」と。けれども天使は、マリア様のささやかな反論に「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」(ルカ 1.35‐37)と答えます。聖霊があなたにかかわる、その業は聖霊の業であると言われて、マリア様は自分の中にあるすべての疑問も不安も恐れも聖霊に委ね、「お言葉どおりこの身になりますように」と言って、そのみ業を引き受けます。それがどのような結果を自分にもたらすことになるかということは全く知らないながら。

 聖書によれば、天使のお告げを受けた後マリア様が最初に行った仕事は、そのお告げの中で聞いた、親類のエリザベトを助けるために山路を越えて彼女の家に向かうことでした。神の子を宿したマリア様の最初の使徒職は隣人愛でした。けれどもマリア様の、エリザベトを助けましょう、という隣人愛に隠されていたもう一つの大切な聖霊の業があります。

 それは、自分の胎に宿した救い主を、やがてその先駆者になるであろうヨハネのところにもたらしたことです。救い主をもたらすということなどマリア様は全く意識していなかったでしょう。エリザベトも同様です。「あなたのお声を耳にしたとき、わたしの胎の子は喜び踊りました」とエリザベトは言います。けれども彼女の胎の子ヨハネは、マリア様の人間的な女性の声を聞いて喜び踊ったのではありません。救い主を宿した方の声を聞いて喜んだのです。

 マリア様の最初の使徒職、救い主を運びもたらすその行いは、マリア様の人間的な行動に秘められたカリスマ、聖霊のみ業です。

 修道会の使徒職の協力者であること、それは修道会の主催する使徒職に小さな協力をすること、本の販売をするとか、何か見える形で協力をすることです。わたしにはこれくらいのことしかできませんから……という謙虚な思いもいいでしょう。この小さなことが何になるのかな……という人間的な思いにとどめておいても結構です。けれども、これをすべて聖霊に委ねてください。「お言葉どおりこの身になりますように」と言ってマリア様が引き受けたその思いに常に自分を駆り立てる。聖霊とのかかわりにおいて。

 「お言葉どおりこの身になりますように」これは、人間的な次元で考えたらそのまま実行しようというのはきついですね。頭で理解できても、やはりそれはマリア様だけに可能な美しい言葉ととらえてしまいます。でも現実にそれを自分の身にあてはめようとしても、「お言葉どおりだって?!・・・・・・冗談じゃない」という気持ちがどこかにあって、理想は理想、現実は厳しい、きれいごとではないわけです。しかし、そういうときこそ、聖霊とのかかわりが大切です。自分の意志の力による決断という次元の話ではないのです。マリア様はご自分の意志で決断したわけではなく、聖霊に委ねて「どうぞ、わたしの身の上にそれが成りますように」と言われたのです。だから人間的に考えて、とんでもないと思うことがあったとしても、聖霊に委ねて「お言葉どおりこの身になりますように」と言うとき、自分の思いとは違うところで、知らないところでそれが実現する。

 「主の洗礼」の祝日には、摂理的にこの協力者会のための大切なメッセージが準備されていたということです。

 マリア様に祈りましょう。マリア様に与えられた同じ聖霊がわたしにも与えられますように。そして、マリア様に「一緒に祈ってください」と願いましょう。マリア様に祈ればあとは大丈夫、わたしは何もしなくてもどうにかなる、待てば海路の日和あり、ということではありません。聖霊の恵みに関しては自分で直接に聖霊に向かわなければなりません。わたし自身が聖霊に祈って必ず聞き入れられる恵みであることを忘れてはなりません。わたしたちはマリア様や洗礼者ヨハネのように、母の胎内にいたときから聖霊に満たされていたわけではありません。洗礼によって神の子となる資格が与えられたけれども、常に聖霊を求めていなければならないし、聖霊で満たし、油注いでくださいと祈り続けていなければならないのです。

 第一朗読で、イザヤが預言している言葉の中に大切なポイントがあります。
 「渇きを覚えているものは皆、水のところに来るがよい。」皆、聖霊を求めなさい、ということです。「わたしに聞き従えば…。」聖霊に聞き従うなら、ということです。「主を尋ね求めよ…。」聖霊を求めなさい。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道は、あなたたちの道を、高く超えている。」パウロの言葉を使うなら、「肉の思うところは霊に反し、霊の思うところは肉に反する。」(ガラテア 5.17)わたしたちの人間的な価値観で、すなわち肉の思いですべてを解決しようとするとき、そこに生まれるのはすべて苦しみと悩みです。聖霊の導きに従うなら、皆に良い食べ物を与え、良い道を教えよう、というのがイザヤの預言です。

 協力ということを神のみ業への協力と受け取るなら、何よりも大切なのは、人間的な思いと行いに秘められている聖霊の働きを信じることです。マリア様が人間的な思いでなしたその行いが、ほかの人にキリストを伝えたように、わたしたちの小さな行いもそれが可能であると信じましょう。キリストを伝えることは、何よりも大切な救いのみ業への協力です。