聖パウロ女子修道会 協力者会 −ともに福音を宣教するために−



創立100周年に向けた歩みを振り返って

聖パウロ修道会 澤田豊成神父

道、真理、いのちである師イエス

 創立者は、パウロ家族だけでなく全世界、全教会に「司祭の熱誠に参与する」ことを当てはめていきたかったのですが、まず第一にパウロ家族をそのような形で育てていきました。これがどれほど画期的なことかといえば、印刷機や印刷工場にある機械が大きな音をたてて動いている、とても聖なる雰囲気とは言えないその場所で、インクまみれになって働いているその仕事を、聖堂で司祭が行うミサや福音宣教と同等の働きとみなしたのです。

 それを意識するために、修道服を着て働いていましたし、創立者は印刷機械やマイクを、聖堂で使う祭壇や聖具にあてはめ、そこで行われていることが、神のことばの告知やイエス・キリストの司牧の業であることを実感するようにしていったのです。

 今、イグナチオ教会の案内所やカテドラルの書院、四谷のサンパウロを訪問して、パウロ会員や職員がキリスト教の書物などの販売をしているのを見て、りっぱな福音宣教をしている、と考えるかもしれませんが、創立者の考えを理解するために一つの例を示したいと思います。

 日本の新聞の中にも、教会についての記事が掲載されることがありますが、例えば教皇フランシスコのことが毎日掲載されたとします。でも、記事を書いた人が福音宣教をし、司祭職を行っていると考える人がいるでしょうか。毎日、新聞を工場で印刷し、配達する人が福音宣教をし、司祭職を行っていると考える人もいないでしょう。

 創立者が語ったのは、次のようなことです。仕事自体(印刷・編集……)は他の人と同じことをしているように見えます。サンパウロや女子パウロ会のお店や出版の仕事は、他の一般の書店や出版社の仕事と変わりないように見えます。

 では、どこが違うのでしょうか。それはパウロ家族という司牧的な働きをとおして唯一の使命に参与し、これを行っているということなのです。そこに意識も考えもすべてが結びつけられ、巻き込まれているため、どんな仕事も「使徒職」、「司祭職」となっているのです。働きは同じに見えても、神のまなざしから見ると意味は違います。これはりっぱな司牧であり、宣教であり、使徒職であり、司祭職です。そのように創立者は考えたのです。

 さて、パウロ家族創立100周年に向けた歩みを振り返ってみると、パウロ家族の使命の特徴は、「道、真理、いのちであるキリスト全体をすべての人に、しかも一人ひとりの全面に浸透するように伝える」という点にあるのは言うまでもありませんが、同時にそれを果たす方法にもあります。つまり、この使命を一人ひとりが個々に行うのではなくて、すべての人を巻き込みながら、組織として、つまり有機的につながった一つのからだ、共同体として行っていくということです。

 老若男女、ありとあらゆる人々が、ありとあらゆる分野で、有機的、計画的につながりながら、壮大な一つの使命を果たすのです。しかも、それはキリストの司祭職、使徒職として行われます。この壮大な使命に招かれ、巻き込まれたパウロ家族のメンバーは、修道者から協力者である信徒に至るまで、それぞれが自分の果たしている具体的な働きだけでなく、全体が一つとなってなされる働きを常に意識し、見つめて生きるよう招かれています。
 一つの企業の中で働く社員が、自分が任された仕事だけでなく、全社員、全部署の仕事が組み合わされて生み出される働きを見つめながら仕事をするようにです。これがパウロ家族のメンバーの大きな特徴です。

 教会は、第二バチカン公会議後、この視点を重視してきました。個々の信徒の働きは大切ですが、小教区としての、教区としての、教会全体としての働きこそが福音宣教の働きなのであって、これを実現するために個々のキリスト者が与えられた務めを、与えられた分野で連携しながら果たしていく必要があります。

 しかし、個々のキリスト者の視点は、まだまだ自分の働きという狭い範囲にとどまっていることが多いのです。熱心に活動していますが、組織として、大きな視野をもってなされていないのです。組織をつくり、育てていくには、時間と労力が必要です。だから、個人の熱意と能力に頼るという誘惑に駆られます。しかし、組織として宣教するからこそ、宣教はより大きな実りをもたらすのです。わたしたちはこのことを知り、自ら生きようとするパウロ家族のメンバーとして、教会の中でもそのすばらしさを証しし、確かなものとするよう招かれているのです。(完)