聖パウロ女子修道会 協力者会 −ともに福音を宣教するために−



パウロの娘たち―その起源と歴史的発展―

聖パウロ女子修道会 シスター三嶋邇子

5.聖パウロの娘(フィリエ・ディ・サン・パウロ)

スーザ

 スーザでの生活は電気もなく、ガス水道管もないという状態でしたが、心から望んでいた印刷所がありました。神への信頼だけが支えの彼女たちは、印刷所と教区新聞を実現していく緊張感でいっぱいでした。

 アルベリオーネ神父は「新聞は偉大な教師である」と彼女たちに語りながら、「聖パウロが現代に生きていたらきっとジャーナリストになっただろう」というケットレルのことばを引用して「キリストを伝えたいという望みであれほど燃え立っていた聖パウロはたしかに出版を利用しただろう。出版は神の恵みを伝えるための強力な手段だ」と語っていました。このアルベリオーネ神父のことばはテレザに深く刻みこまれ、彼女は聖パウロに親密な信心をもって熱心に祈るようになりました。

 まもなく、家族は12人にまで増加しました。家では祭壇のきわに聖母とみ心のご像とともにパウロのご像が置かれ、印刷所でも書店でも聖パウロのご絵が飾られていました。スーザの学生たちも聖パウロに崇敬を払うようになりました。

 1919年、住まいから火事が発生し、人的被害がなかったとはいえ、家財道具一切を失いました。しかしこの火事のできごとはグループの存在をスーザの人々に知らせるよい機会となりました。少し経ったとき、今度は印刷所の天井が崩壊し、続いて1920年、パンパウルの要塞が爆発し、町に大きな被害が出ました。しかし、いずれも彼女たちに人的被害がありませんでした。彼女たちは、このことは聖パウロの特別の保護があったためだと信じています。毎日の使徒職の中で、また特に3回も被災したときの聖パウロの特別の保護を体験していた彼女たちを、人びとはいつしか「聖パウロの娘」と呼ぶようになっていました。

 1920年末、印刷学校は聖パウロ修道会(ピア・ソチェタ・サン・パウロ)となり、1922年2月、女子部は「聖パウロの娘(フィリエ・ディ・サン・パウロ)、日本では聖パウロ女子修道会」と命名されました。 (続く)