聖パウロ女子修道会 協力者会 −ともに福音を宣教するために−



使徒的神秘性  第12回

聖パウロ修道会 澤田豊成神父

「すべてのことを福音のために」(Tコリント 9.23)

「囚われの身にありながらも・・・喜んでいます」(フィリピ 1.18)

牢獄のパウロ

 前回は、パウロが取り去ってほしいと願った「刺(とげ)」(Uコリント 11.8)について考えました。パウロはその中で、自分をとおして福音を宣べ伝えてくださるのは主キリストなのであり、だから自分の「刺」をとおしても宣教はなされるのだ、ということを感じ取っていきました。

 キリストは、パウロが実際にこのことを体験する恵みを与えてくださいます。パウロは、捕らえられ、牢に入れられているときに、フィリピの教会への手紙を書きます。しかし、パウロはもはや牢に入れられていること、そのために自分では直接宣教活動ができないことを、否定的には受け止めていません。「わたしは、囚われの身にありながらも、さらに苦難を受けることを喜んでいます。それどころか、わたしは今後もこのことを喜びとします」(フィリピ 1.18)。

 それは、「わたしが囚われの身にあるのは、わたしがキリストに結ばれた者であるからだ、ということが官邸護衛兵全員と、ほかのすべての人に知れ渡り、また、主と結ばれたこちらの兄弟のほとんどは、このように、わたしが囚われの身にあるのを見て信頼し、恐れることなく、ますます大胆に、みことばを語るようになった」(1.13〜14)からです。

 あれほど、「刺」を取り去ってほしいと願ったパウロは、もういません。そこにいるのは、福音宣教のために「刺」をも喜びとしてやまないパウロです。
 これこそ、パウロの使徒的神秘性の頂点なのかもしれません。キリストのためであれば、何もできないこと、いや死なねばならないことですら、パウロは喜んで受け入れるのです。パウロが、「わたしはすべてのことを福音のためにしています」(Tコリント 9.23)と言うときの「すべて」とは、こういうことさえも含むのです。